<風の街> Vol.3(2016.08.19) 
■大切なことはみんなドラマが…
   「大切なことはみんな映画が教えてくれた」との名言は淀川長治が言ったものだと、ずっと思い込んでいたのですが、今、この記事を書くにあたってちょっと調べてみたら、彼は「映画が教えてくれた大切なこと」というタイトルの本を著しただけなんですね。
 で、「大切なことは×××が教えてくれた」という言い回しは、ずっと昔から使われていた表現なのだそうです。

 それはともかく、アラカンの私の世代だと、「大切なことはみんなドラマが教えてくれた」と言い切る人も、少なくないと思います。そんなドラマ好きなので、これまで見てきた数え切れないドラマに順位をつけるとすると、これはたいへん難しい作業になりますが、これからもきっと変わることのない「不動の1位」ならあります。

 それは、木下恵介の「3人家族(1968年)」。小学生ながら、毎週、心から楽しみにしていました。
 このドラマのオープニングだったと思いますが、矢島正明のナレーションの冒頭に、「ゆきずりの人であれ、ほほえむがいい」という一節があって、これがたぶん、ドラマから最初に学んだ「人生で大切なこと」じゃないかと思います。

 主演の竹脇無我と栗原小巻が、絵に描いたような美男美女だったけど、決して現実離れしているわけではなく、この二人でなければこのドラマは成り立たなかっただろうと思います。
 今思うと、それぞれの弟・妹役のあおい輝彦と沢田雅美が2枚目半くらいの設定だったので、バランスがとれていた(?)のかもしれません。

 「大切なこと」として心に残っている言葉をもう一つ挙げると、水谷豊主演の最初の「熱中時代(1978年)」から。
 船越英二演じる天城校長先生が、主演の北野広大が学校を離れるときに言ったと思うんだけど、「辛い悲しい別れがあるから、次の新しい出会いを大切にできる」というセリフ。
 今でも自分に言い聞かせているわけではないけど、憶えているということは、心に刻まれているひと言であるのは確かだと思います。
 もちろん、ドラマとしてもいい内容で、けっこう見ながら泣いていた記憶はあります。ただ、エピソードは、何一つ憶えていないんだけどね。

 言葉として今でもパッと記憶から取り出せるのはそれぐらいですが、でも「名言集」としてではなく、きっと、ドラマから学んだ人生の機微みたいなものが、今の自分を作っているのは間違いないと思います。

 さて、1位は不動としても、2位以下を明確に順位付けていくのは、まず不可能でしょうね。
 なにせ年齢的に記憶がかなり危うくなっているので、内容が思い出せるといったら、やはり比較的最近のものになってしまうからです。

 それを承知で「いいドラマだった」と記憶しているものを挙げると、まずは「白線流し(1996年)」かな。
 放送年をあらためて見ると、もう結婚して子どももいた時でした。それでも、この高校生仲間の世界に浸りきっていたなぁ。誰から言われたか憶えていないけど、けっこう熱くこのドラマを語ったら、「TV局に頼んで仲間に入れてもらえばいいっしょ」なんてからかわれたこともあります。

 それから「泣いてたまるか(1966〜68年)」。連続ドラマではないので、他と並べられないかもしれませんが。
 基本的には、「貧乏だけど一生懸命生きていれば、最後は報われる」って、そんな話だったように思います。
 って書いたところで、念のため調べてみたら、けっこう長くやっていたんですね。渥美清に加え、途中から青島幸夫が交互主演していたのは憶えていたけど、終盤、中村賀津雄まで加わっていたのは記憶にありませんでした。
 全話、一話完結だったので(前・後編ぐらいはあったかも)、エピソードは何も憶えていませんが、渥美清主演の回で、佐藤オリエが見合い相手として登場し、子供心に「きれいな人だな」と思ったのは、なぜか今でも記憶に残っています。

 あと、前号でも触れた「空飛ぶ広報室(2013年)」と、NHKでやった「わたしをみつけて(2015年)」。どちらもごく最近のものなので印象深いのかもしれないけど、今の時点での2位と3位に付けられるかもしれません。
 まぁ何年も経って記憶が薄れると、変わるかもしれないけど。

 「わたしをみつけて」は、あるファンサイトで、続編を勝手に書き始めたことがあります。尤も、何も構想しないで書き始めたので、すぐに息切れしちゃいましたが。
 もし機会があれば、書き続けたいなとは思っているんですけどね〜。
 ちなみに、既刊の小説などの設定を借りて続編を勝手に作ることは、異論もあれど、著作権侵害にはならないんだそうです。だからコミケの漫画が成り立っているんですね。
 なので、もしかしたら、私もこの『風の街』で続きを書き始めちゃうかもしれません。

 あと、心に残っているのは、「表参道高校合唱部!(2015年)」とか、「コウノドリ(2015年)」とか、やはり記憶に新しいところが多いかな。
 ただ、「表参道高校―」は、世間の評判でも、“神回”と言われたのは第1話、せいぜい第2話で、そこは私も同じ評価です。

 それから、いろんな意味で影響を受けたのは、夏木陽介主演の「青春とはなんだ(1965〜66年)」に始まる、いわゆる学園青春ドラマ。たぶん、中村雅俊が主演した「われら青春!(1974年)」までが、そのシリーズだったのではないでしょうか。いや、もしかしたらそのあとにも続いたのかもしれませんが、私の中では、「われら青春!」が、シリーズの区切りとなっています。

 そういえば、小学校の時の卒業アルバムで、将来の夢に「高校の教師」と書いた子(女子)がいて、「この『高校の教師』という書き方は、絶対にこの一連のドラマに影響されているな」と思って聞いてみたら、果たしてその通りでした。その後、夢を果たしたのかどうか、聞いてみたいですね。

 まだまだ、いいドラマとして憶えているのはたくさんありますが、キリがないのでこの辺にしておきます。

 ※写真は、「三人家族」の主題歌のレコードジャケット写真。もちろん、自分でも買いましたが、探してみても見つかりませんでした。なので、ネットにあった画像をちょっと拝借しました。とても心に浸みるいい歌ですヨ。
 Youtubeで検索したら聞けるかもしれません。
 
■「傷痍軍人」のこと
 

 このことばも、もう死語に近いですかね。分かる人は50代以上? それとも60代?
 ことば通りの意味で言うなら、戦地に出て傷病を負った人のことを言いますが、私が書きたかったのは、その中のごく一部の方々のことです。

 まぁここで説明しようとしてもデリケートな問題があるので、ウィキペディアの該当ページをご覧下さい。ページの中に「日本の傷痍軍人」という項目がありますが、その最後の4行が、私の言っている「傷痍軍人」のことです。

 まだ子どもだった当時、我が家の最寄り駅だった埼京線(当時は赤羽線)の板橋駅前に、その人たちはいました。
 白い戦闘服を着て、片足、もしくは両足が切断されていて、アコーディオンなどを弾いている。そのメロディがいかにも哀しげで、切なげで、今思うと申し訳ない限りですが、子ども心には異様な光景としか見えず、正直、「怖い」と思いながら、足早に前を通り過ぎたものでした。

 電車を利用しての帰り道だったので、小学生にはなっていた頃と思います。ただ、見かけるたびに、家に帰って親に報告していたから、やはり珍しい光景ではあったのでしょう。
 ウィキペディアによれば、彼らは、生活は国から保障されていて、小遣い稼ぎでそうしたことをしていたありますが、実は私が気になっているのは、この点なのです。

 親に「今日、またいたよ」という話をしてどういう返事が返ってきたのか、具体的なことばは憶えていませんが、でも、明らかに、“物乞い”的な捉え方をしていたと思います。
 といって、決して蔑んでいたわけではなくて、「戦争で傷を負ったかわいそうな人たち」という受け止め方ではありましたけど。ただ、だからといって、その人たちをみんなで守っていかなければならない、というようなニュアンスはなかったように思います。

 今、板橋駅東口(=写真)の向かって一番左側に、2階建ての交番がありますが、これがいつ頃建てられたものか。
 親から聞いたのか、どこかの大人が話していたのを聞いたのか、そこはまったく曖昧ですが、これは、傷痍軍人の人たちを排除するために建てられた、と聞いたことがあります。もしかしたら、大人たちが想像で言っていたのかもしれませんが。
 でも、そう聞いて、「もう怖い人たちを見なくて済む」と安心したことだけは、はっきりと憶えています。

 今は、社会的弱者に「やさしいまなざし」を向けていないと、その人が叩かれる時代です。だから、“フリ”だけでもそうしていなければならない。
 なんてことを言うと、「おまえの本性はそういうことだったのか」と言われるかもしれませんが、私の本性はともかく、本当に世の人々に「やさしいまなざし」が備わっているのなら、少なくとも殺伐とした事件が後を絶たない世の中にはならないでしょう。

 もし、今も傷痍軍人の人たちが街でアコーディオンを奏でていたら、人々はどういう反応をするでしょうかね。
 「戦争の犠牲になった人たちなのに、そういうことをしなければ生活できないなんて国の補償システムはどうなっているんだ」、などと政府を責めるのでしょうか。

 戦後71年。
 たとえ“フリ”だけでも、「弱者への『やさしいまなざし』を持つことが人間として大事」、ということだけは浸透している分、いい時代になったといえるのかもしれません。なんてね。

 ※写真=Google Mapのストリートビューより抽出

 
■編集後記
   「不定期刊」としておいて良かったと思う今日この頃。
 本当は、旬刊程度には出したいなと思っていたのですが、とにかく忙しい日々でした。ただ、1カ月も間が空くとは思わなかったなぁ。

 書きたいことは、もちろん、たくさんあるのです。
 毒にも薬にもならないエッセイではなく、身の回りや社会的なニュースになった出来事に対し、論評めいたことも書いてみたいとも思っているのです。
 でも、只々時間がありませんでした。

 まぁオリンピックもあったし。
 というのは半分冗談で、ホームページ作成の仕事に追われていました。
 本当は、「書く」ことだけでメシが食えたら、言うことないのですけどね。生活していくためには、何でもしていかなければなりません。ハイ。