◎宗教団体は国家にとって常に“邪宗”?

2019.10.08 

 高橋和巳の「邪宗門」を最初に読んだのは、学生時代だった。
 友人の部屋で、同じ貧乏学生にしては分不相応な高橋和巳全集を書棚に大事そうに並べていたのを、パラパラと手に取っているうちに、「邪宗門」というタイトルを見付けたのである(この辺は古い記憶なので曖昧だけど)。
 そのタイトルに惹かれ、貸し渋るのを無理矢理借りて読んだのだが、たぶんその時は、純粋に単なる小説としてしか捉えていなかった。内容などすぐに忘れたが、何か強烈な印象だけは残っていたと思う。

 再びその小説に向き合ったのは、恐らく30代に入ってから。宗教と社会の関わり、もっと言えば、世の中の宗教団体に向ける“眼”というものを深く考えるようになってからだと思う。
 何かの本で、治安維持法が宗教団体に初めて適用されたのが第二次大本事件であり、その大本教(教団の正式名称に“教”の字は付かないが、便宜上、そう呼ばせていただきます)の弾圧を描いたのが、高橋和巳の「邪宗門」である、と知り、昔々読んだことは憶えていたけど、内容はまったくかけらも憶えていなくて、それでもう一度、挑戦したのでした。

 その再読の1回目に、小説本文だったか、文庫本巻末の解説だったか、「宗教が世直しを掲げる以上、どの宗教も国家権力にとっては邪宗である」という趣旨の一文を読んだときには、とても衝撃を受けましたね。
 個人の幸福と世の中の安寧は一体のもので、どんな宗教であれ、宗教が「今以上の自身の幸福」を求める以上、その中には「今以上の世の中の安寧」も含まれることになる。それはすなわち、「今の政治が良くない」と言っているのと同義であり、現政権の否定に繋がる、と、実際にはもっと丁寧に説明されていたであろうが、そんな趣旨だったと思う。

 たとえば、有名な日蓮の立正安国論にも、「汝須(すべから)く一身の安堵を思わば、先ず四表の静謐(せいひつ)を祷らん者か」とあり、世の中の安穏や人々の幸福を願い行動していく中に自身の幸福がある、と、日蓮はその後の生涯の布教を展開していくが、これも、国家にとっては、自分たちが否定されたということになるのであろう。実際、日蓮はその後何度も弾圧を受けるのだから。

 治安維持法が宗教団体にまで手を広げたのは、一つには、共産主義者など、取り締まるべき人々をあらかた検挙し、もう?まえる相手がいなくなってきたので、思想警察を縮小すべしと言う声が一部から湧き起こってきたから、という研究もある。
 大本教の第二次弾圧は、治安維持法違反だけでなく不敬罪も含まれていたから、弾圧そのものは避けられなかったかもしれないが、もし治安維持法が適用されなければ、果たしてどうなっていたか…。

 宗教団体が、国家権力の側にいるか、反対側にいるかは、その時その時の一現象に過ぎない。本質は「国家権力にとって常に邪宗」、というのはこれからも変わらない、と私は考えます。
 およそ信仰を持つ者、宗教団体に所属している者は、ゆめゆめ、そのことを忘れてはならないと思う。


◎商店街よいつまでも(笑)

2019.07.08 

 何年か前の、実家の引っ越しで東京に行ったときの感想。
 いゃぁ、引っ越しは疲れる、という愚痴を言いたかったわけではなくて、商店街にちょっと感動した話を。

 新しい家は、西武線の沿線、辛うじて23区内にあるのだが、最寄り駅からは商店街を通るようになっていて、これがホントに新鮮だった。
 多分、全国いたるところで見られる、何の変哲もない商店街だと思うが、実は、生活圏にこういう商店街があるのは、初めての体験なのである。イヤ、まぁ、自分が生活するわけではないのだけどネ。

 目に付いたのは、居酒屋の多さ。どこもチェーン店ではなく、地域に密着した店のようだったが、2軒あった焼き鳥屋はいずれも店頭での対面販売もしていて、これが両方とも結構な客を集めていた。主婦よりも、仕事帰りのおっちゃんやお姉ちゃんがほとんどで、帰って焼き鳥で一杯、というところなんだろうね。
他にも食堂と兼ねたような呑み屋があって、退勤時のためか、ふつうの居酒屋よりも混んでいるようだった。ここは1回、入ってみたい、と思いましたね。

 もちろん、酒を呑ませるところばかり目に付いたわけではなくて、一般的な商店の種類も観察したけど、自家製キムチの専門店だとか、見たことのない種類の豆を扱っていた豆の専門店だとか、こういうのは、その商店街の特色を出している店と言っていいのかもね。 西武線なので、駅前には西友もあるし、イオン系のミニスーパーもあったが、青果店も客を集めていて共存していたのが、何か嬉しかったよね。 残念だったのは、生活雑貨を扱う商店が見つけられなかったこと。
 荷解きしながら、あれがない、これがないと何度も商店街は走ったのだけど、結局、ほとんどのものを購入したのは、コンビニでした。

 やはり全国共通仕様の店というのは、何を扱っているか、店内のどこに何があるかが分かって、言うなれば行きつけの店があるようなもの。店の人と世間話をしたりというコミュニケーションを望んでいない客にとっては、コンビニの方がありがたいのだろう。
 実際、昨日見た限りでは、どこの商店よりも、コンビニは人が立ち寄っている感じでした。
そう考えてみると、居酒屋などの飲食店とスーパーを別にすると、コンビニ1店で、他の商店の売り上げの合計を越えているんじゃないかと、そんな心配をしてしまいましたよ。


◎「運命の出会い」

2019.02.08 

 吉行淳之介のエッセイに、こういう話があった。
 ある男が、道を歩いていて、心にピンとくる女性を見かけた。これはもう絶対に行きずりで終わらせてはならないと、しばらく後をつけた。しかし話しかけるチャンスはない。思い余って、男はこう声をかけた。「すみません、駅に行く道はどちらでしょうか」と。声をかけて、男はしまったと後悔した。何故ならそこは駅前だったからだ。しかし女性は微笑んで、「駅はそこですが、でも…」と返事をする。男は、「それでは、少し歩きましょうか」と肩を並べて歩き出した。二人はやがて結婚した。

 どのエッセイだったか思い出せないので記憶だけで書いているが、吉行は、女性の「でも…」という返事、そして男の「それでは…」を取り上げて、何が「でも」なのか、何が「それでは」なのか、まったく意味が通じないが、それでも雰囲気が伝わってくる話である、と。

 吉行が興味を惹かれた、二人のことば遣いはともかくとして、道を歩いていて眼を惹かれる異性に出会ったことは、だれでも一度や二度はあるに違いない。
 もっとも男の場合は、女優かアイドルか、なんていう美女に出会えば、つい見惚れて眼で後を追ったりするが、まぁそれは「心にピンと来る女性」というのとは、ちょっと違ってくる。
 かつて、アイドル好きの友人と、「我々はなぜ美少女に惹かれるのか」という議論を、呑みながら延々としたことがあるが、結論は、「そこに物語が生まれるから」というものだった。別名、“妄想”とも呼ぶらしいが。
 と言っても、決して性的劣情を満たすような種類の妄想ではない。それは、どこまでも、出会った二人が人生を織り成していくとしたら…、という物語としての想像である。なので、ここは一旦、芸能人に限定するけど、自分の好みの顔立ちの女優を見たからって、誰に対してもそういう物語を想像するわけではない。大半は「きれいな女優さんだな」で終わるし、若い時分なら、それこそ性的な妄想を逞しくする相手にするかもしれない。相手がテレビなどメディアの向こう側にいる人であろうと、本当に「この人と人生を重ねられたら…」と思える相手に出会う確率は、通りでそういう人とすれ違うのと同じくらい、低いと思う。

 ま、そういう芸能人のことは置いといて、話を「出逢い」に戻すと、さまざまな「ピンとくる出逢い」の中で、すれ違いの一瞬にそれを感じるというのは、やはりきわめて稀なケースだとは思う。多くは、人の紹介だったり、学校や職場が一緒だったり、時にはナンパだったり、等々、等々。
 ただ、そういう一般的な出逢いであっても、気が付いたらいつのまにか一緒になっていたというのは意外と少なくて、幼なじみのような長い付き合いであろうと、会社の同僚や先輩としての出逢いであろうと、「ピンとくる一瞬」というのは、比較的、出会った最初の頃が多いように思う。
 何か根拠があるのかと言われても、明確に統計を取ったわけではもちろんない。いばって言うことではないけど。
 周囲の何人かに聞いてみたり、また最近はネット上に出逢いなどの自己語りを書くサイトも多く、そういうのを読んでの感想だ。

 私は基本的に運命論者ではないが、人との縁、というのはあると思っている。この人と出会う必然性というか、この人と前世に何らかの因縁があったのでは、というのは、リクツでなく、直感としてそう思わざるを得ない瞬間がある。それは男女間に限ったことではないし、また男女の間でも、必ずしも恋愛や結婚へと結びつく関係とは限らない。そういう意味では、そういう人と何人も出会ってきたし、それは会って二言三言、話をすれば、たちまちに分かるような気がする。
 長い付き合いになっていくだろうな、と感じた人とは、やはり長い付き合いになっていくし、その逆、つまり自分の人生と重なり合うことはなさそうだな、と感じた人とは、やはりその場の関わりで終わることが多い。
 ただ、そういう出会うべき人との出逢いの中で、やはり異性とのそれは、ある種の嬉しさというものがある。もちろん、浮気とか不倫などではなく、言うなれば「女友達」として、そのあとも長い付き合いをしていくという前提の話だけど、男同士――それがいくら気の合う友であっても――とは違う、まったく異質の華やかさが常につきまとう。
 配偶者ができると、そういう女友達とも疎遠になっていくようだが、むしろ熟年と呼ばれる年齢になるほどに、そういう華やかな気持を呼び覚ましてくれる相手がいるほうが、残りの人生を豊かにしてくれるものである。

 さて、問題は、配偶者がいるのに、すれ違ったときに「ピンとくる女性」と出会ってしまった場合である。
 今は、性犯罪にはたいへん厳しいご時世なので、冒頭の例のように、ヘタに声などかけたりすると、ましてやこちら側が既婚者だったりしたらなおさら、すぐに通報されてお縄になることは覚悟しなければならない。
 それでもなお、「この人と行きずりでは終わりたくない」と思うのなら、まぁやはり声をかけるしかないだろうね。その一瞬の出逢いの中に深い縁(えにし)を感じたのなら、もしかしたら、女友達として、深く(精神的にだけど)長く、人生を重なり合わせていくのかもしれない。配偶者は配偶者として。
 但し、繰り返すけど、声をかけるリスクは相当大きいよ。

 そう言えば、ネットの書き込みでこういうのがあった。
 ある既婚女性(40代くらいだったか)が、近所に済む若い女性の親から、「娘がお宅のご主人に言い寄られてたいへん迷惑している、すぐにやめてくれるなら大事(おおごと)にしないが、今後も続くなら警察に訴える」と、寝耳に水の抗議を受けたんだとか。
 旦那の生活パターンは最近特に変わった様子もないし、絶対に人違いだろうと、あくまでも疑いを晴らすために自分の実兄に尾行をお願いしたら、これが何と真っ黒だったんだねぇ。その旦那は妄想が昂じて、妻と別れ、その若い女性と結婚するストーリーを思い描いていて、幾分、精神的疾患になりかかっていたという。
 結局、夫婦は離婚し、旦那は距離の離れた実家に引き取られたそうだが、本当に精神的疾患にかかるかどうかはともかく、周囲からそう思われるぐらいのリスクは、覚悟しなければならない、ということだ。


◎採否はクライアントの感性次第

2018.11.22 

 これまで作成したコピーのいくつかを紹介したい。

 もう何年前の作品か忘れたが(DVDに保存しているデータをみればわかるのだが)、日本カナダ学会というのがあって、そこが北海道で総会だか大会だかをやることになり、その周知ポスターの作成依頼を受けたことがある。
 周知と言っても一般人が対象ではなく、会員向けだったと記憶しているが、カナダらしい風景の写真をいくつか提供され、それを組み合わせて、「北海道で大会をやりますよ」という一文を、何か添えて欲しい、というものだったと思う。
 レイアウトは問題なかったが、悩んだのは、そのコピー。 会員向けとはいっても、あまりに事務的なポスターではつまらないし、何か一ひねりしたいな、と考えていた。

 その時出来上がったのが、「遥か、カナダ」というもの。
 おやじギャグと言われればそれまでだけど、北海道で開くのは久しぶりと聞いていたので、はるばる北海道に来てもらう参加者の旅情を掻き立てることにも繋がるのでは、という判断だった。
 ただ、クライアントに持って行くときは、さすがにふざけ過ぎているというお叱りも予想し、オーソドックスで事務的なものをもう一つ作り、2案として提示した。
 学会自体は、それなりに権威のある大きな組織のようだが、対応してくれた担当者は一人きりで、全権を任されているようだった。そして、その場で即座に選んだのか、「遥か、カナダ」の方だった。

 その担当者もかなりの年配者で、たぶん、おやじギャグを飛ばしている世代ではなかったか。
 でも、コピーに込めた趣旨を一通り話した上で判断を待つと、「面白いですね、こちらにしましょう」と理解してくれたのである。
 その後、使用時の反応を聞く機会もないまま終わったが、まぁ結局、クリエイティブな仕事というのは、客観的な優劣よりもクライアントの好み、感性で決まってしまうんだよな、ということをあらためて思い知った一件でした。

◎オトナだって“恋バナ”が好き?

2018.08.12 

 先日、ツィッターを眺めていたら、既婚・子持ちと思われる女性が、「あぁ、思いっきり恋バナしたいなぁ」と呟いていて、ちょっとニヤッとしてしまった。その方はふだん、舌鋒鋭く政権を批判していたりして、恋愛話みたいな方面に興味をお持ちだとはいささかも匂わせなかったので、あぁ、素に戻ればみんな同じなんだな、と、つい嬉しくなったのである。いや、政権批判も、その方の素であることは間違いないのだけど。
 そのツィートには、賛同の「いいね」もけっこう寄せられていたし、(それが理由ではないが)女性で、そういう話がキライという方は、そう多くないように思う。

 では、男はどうか。
 男は見栄っ張りなので、「思いっきり恋バナしたいなぁ」などと口にするものはほとんどいないと思う。そんなことより、仕事のことを考えたり、家族のことに心を砕いたり、日本や世界の明日を考えることこそ、男の本分である、なんていう姿を見せたがるからね〜。
 確かに、仕事よりも日本の明日よりも、いつも「男と女のこと」を考えている男がいたら、私もちょっと敬遠するだろうと思う。いや、男に限らず、それは女性だって同じだ。だけど、男と女が絡み合って(肉体的な意味だけでなく)生まれてくる、さまざまな心の“たゆたい”は、いくつになっても興味が無くなることではないし、譬えば酒を傾けながら、静かに語りたくなることだって、気持の奥に常にしまい込まれているのではないか。

 ということで、無謀にも『恋愛論』に挑戦しようかと思います。どれくらいの頻度で書けるかはわかりませんが。
 いや、そんなたいそうな、予告するほどのものではないのだけど。せいぜい、2ちゃんや5ちゃんで言うところの“チラ裏”ていどですが…。

 まぁ女性が言うところの「恋バナ」とはちょっと違うけど、ぜひ読み続けていただけたらと思います。


◎昨年の大手企業のコピーは…
2018.06.05 
 これまでの業務の中で、宣伝コピーそのものを作ることはほとんどなく、大抵は、リーフレットやフライヤーの制作に伴って、商品などのキャッチを考える、というケースがほとんどであった。なので、業務の中に占める比率としてはごく僅かなのだが、実は、これが最も好きな作業だったりする。
 ほんの1行、2行という短いことばの中に、どれだけその“商品”の本質を込めることができるか。取材して記事を書いたり、物語を紡いだりするのとはまったく違う、エキサイティングな創作活動だと思っている。

 ちなみに、下のURLは、ネットサーフィンをしていて見付けた、「【2017年版】目を通しておきたい大手企業のキャッチコピー50選」というサイト。印刷媒体だけでなく、サウンドロゴになっているものも含まれており、目に耳に馴染んでいるものがさすがに多いが、こうして50社、並べてみると、否応なく気付くことがある。
 https://ec-orange.jp/ec-media/?p=4561
 それは、英語の表記のものがかなりな比率を占めていること、そして英語のコピーは、ほとんど記憶に残っていないことである。

 もちろん、後者の方は「事実」ではなく、個人的な感想であり、英語が苦手という個人的資質によることが大きい。英語に違和感のない30代ぐらいまでの年代層なら、ふつうに記憶の中に定着しているのかもしれない。
 だが、やはり言いたい。「英文のコピーはつまらない」と。
 私は別に右翼的愛国者でもなんでもないが、日本語は、好きである。まぁ日本語しか使えないからだろ、と言われればそれまでだが。でも、一つのことばの中に、単に文字が指し示す意味だけでなく、書き手のさまざまな想いを言外に込めたり、読み手がそのことばから自分の辿ってきた人生の一部を切り取って重ね合わせたり、そういうことができる懐の深さが、日本語にはあると思う。
 まぁ他国の言語でも、それを当たり前に使っているその国の人々にとっては、事情は同じことになるのだろうが、日本で、たとえば英文や英単語にそういう含みを持たせるのは、かなり困難ではないかと思う。

 この先、宣伝コピーを作る機会がどれだけ訪れるかは分からないが、たぶん、英語に手を出すことはないだろうなと思う。