◎ピンとくる出逢い
2018.06.18 
 吉行淳之介のエッセイに、こういう話があった。

 ある男が、道を歩いていて、心にピンとくる女性を見かけた。これはもう絶対に行きずりで終わらせてはならないと、しばらく後をつけた。しかし話しかけるチャンスはない。思い余って、男はこう声をかけた。「すみません、駅に行く道はどちらでしょうか」と。声をかけて、男はしまったと後悔した。何故ならそこは駅前だったからだ。しかし女性は微笑んで、「駅はそこですが、でも…」と返事をする。男は、「それでは、少し歩きましょうか」と肩を並べて歩き出した。二人はやがて結婚した。

 どのエッセイだったか思い出せないので記憶だけで書いているが、吉行は、女性の「でも…」という返事、そして男の「それでは…」を取り上げて、何が「でも」なのか、何が「それでは」なのか、まったく意味が通じないが、それでも雰囲気が伝わってくる話である、と。

 吉行が興味を惹かれた、二人のことば遣いはともかくとして、道を歩いていて眼を惹かれる異性に出会ったことは、だれでも一度や二度はあるに違いない。
 もっとも男の場合は、女優かアイドルか、なんていう美女に出会えば、つい見惚れて眼で後を追ったりするが、まぁそれは「心にピンと来る女性」というのとは、ちょっと違ってくる。
 かつて、アイドル好きの友人と、「我々はなぜ美少女に惹かれるのか」という議論を、呑みながら延々としたことがあるが、結論は、「そこに物語が生まれるから」というものだった。別名、“妄想”とも呼ぶらしいが。
 と言っても、決して性的劣情を満たすような種類の妄想ではない。それは、どこまでも、出会った二人が人生を織り成していくとしたら…、という物語としての想像である。なので、ここは一旦、芸能人に限定するけど、自分の好みの顔立ちの女優を見たからって、誰に対してもそういう物語を想像するわけではない。大半は「きれいな女優さんだな」で終わるし、若い時分なら、それこそ性的な妄想を逞しくする相手にするかもしれない。相手がテレビなどメディアの向こう側にいる人であろうと、本当に「この人と人生を重ねられたら…」と思える相手に出会う確率は、通りでそういう人とすれ違うのと同じくらい、低いのである。

 ま、そういう芸能人のことは置いといて、話を「出逢い」に戻すと、さまざまな「ピンとくる出逢い」の中で、すれ違いの一瞬にそれを感じるというのは、やはりきわめて稀なケースだとは思う。多くは、人の紹介だったり、学校や職場が一緒だったり、時にはナンパだったり、等々、等々。
 ただ、そういう一般的な出逢いであっても、気が付いたらいつのまにか一緒になっていたというのは意外と少なくて、幼なじみのような長い付き合いであろうと、会社の同僚や先輩としての出逢いであろうと、「ピンとくる一瞬」というのは、比較的、出会った最初の頃が多いように思う。
 何か根拠があるのかと言われても、明確に統計を取ったわけではもちろんない。いばって言うことではないけど。
 周囲の何人かに聞いてみたり、また最近はネット上に出逢いなどの自己語りを書くサイトも多く、そういうのを読んでの感想だ。

 私は基本的に運命論者ではないが、人との縁、というのはあると思っている。この人と出会う必然性というか、この人と前世に何らかの因縁があったのでは、というのは、リクツでなく、直感としてそう思わざるを得ない瞬間がある。それは男女間に限ったことではないし、また男女の間でも、必ずしも恋愛や結婚へと結びつく関係とは限らない。そういう意味では、そういう人と何人も出会ってきたし、それは会って二言三言、話をすれば、たちまちに分かるような気がする。
 長い付き合いになっていくだろうな、と感じた人とは、やはり長い付き合いになっていくし、その逆、つまり自分の人生と重なり合うことはなさそうだな、と感じた人とは、やはりその場の関わりで終わることが多い。
 ただ、そういう出会うべき人との出逢いの中で、やはり異性とのそれは、ある種の嬉しさというものがある。もちろん、浮気とか不倫などではなく、言うなれば「女友達」として、そのあとも長い付き合いをしていくという前提の話だけど、男同士――それがいくら気の合う友であっても――とは違う、まったく異質の華やかさが常につきまとう。
 配偶者ができると、そういう女友達とも疎遠になっていくようだが、むしろ熟年と呼ばれる年齢になるほどに、そういう華やかな気持を呼び覚ましてくれる相手がいるほうが、残りの人生を豊かにしてくれるものである。

 さて、問題は、配偶者がいるのに、すれ違ったときに「ピンとくる女性」と出会ってしまった場合である。
 今は、性犯罪にはたいへん厳しいご時世なので、冒頭の例のように、ヘタに声などかけたりすると、ましてやこちら側が既婚者だったりしたらなおさら、すぐに通報されてお縄になることは覚悟しなければならない。
 それでもなお、「この人と行きずりでは終わりたくない」と思うのなら、まぁやはり声をかけるしかないだろうね。その一瞬の出逢いの中に深い縁(えにし)を感じたのなら、もしかしたら、女友達として、深く(精神的にだけど)長く、人生を重なり合わせていくのかもしれない。配偶者は配偶者として。
 但し、繰り返すけど、声をかけるリスクは相当大きいよ。

 そう言えば、ネットの書き込みでこういうのがあった。
 ある既婚女性(40代くらいだったか)が、近所に済む若い女性の親から、「娘がお宅のご主人に言い寄られてたいへん迷惑している、すぐにやめてくれるなら大事(おおごと)にしないが、今後も続くなら警察に訴える」と、寝耳に水の抗議を受けたんだとか。
 旦那の生活パターンは最近特に変わった様子もないし、絶対に人違いだろうと、あくまでも疑いを晴らすために自分の実兄に尾行をお願いしたら、これが何と真っ黒だったんだねぇ。その旦那は妄想が昂じて、妻と別れ、その若い女性と結婚するストーリーを思い描いていて、幾分、精神的疾患になりかかっていたという。
 結局、夫婦は離婚し、旦那は距離の離れた実家に引き取られたそうだが、本当に精神的疾患にかかるかどうかはともかく、周囲からそう思われるぐらいのリスクは、覚悟しなければならない、ということだ。


◎オトナだって“恋バナ”が好き?
2018.06.05 
 先日、ツィッターを眺めていたら、既婚・子持ちと思われる女性が、「あぁ、思いっきり恋バナしたいなぁ」と呟いていて、ちょっとニヤッとしてしまった。その方はふだん、舌鋒鋭く政権を批判していたりして、恋愛話みたいな方面に興味をお持ちだとはいささかも匂わせなかったので、あぁ、素に戻ればみんな同じなんだな、と、つい嬉しくなったのである。いや、政権批判も、その方の素であることは間違いないのだけど。
 そのツィートには、賛同の「いいね」もけっこう寄せられていたし、(それが理由ではないが)女性で、そういう話がキライという方は、そう多くないように思う。

 では、男はどうか。
 男は見栄っ張りなので、「思いっきり恋バナしたいなぁ」などと口にするものはほとんどいないと思う。そんなことより、仕事のことを考えたり、家族のことに心を砕いたり、日本や世界の明日を考えることこそ、男の本分である、なんていう姿を見せたがるからね〜。
 確かに、仕事よりも日本の明日よりも、いつも「男と女のこと」を考えている男がいたら、私もちょっと敬遠するだろうと思う。いや、男に限らず、それは女性だって同じだ。だけど、男と女が絡み合って(肉体的な意味だけでなく)生まれてくる、さまざまな心の“たゆたい”は、いくつになっても興味が無くなることではないし、譬えば酒を傾けながら、静かに語りたくなることだって、気持の奥に常にしまい込まれているのではないか。

 ということで、無謀にも『恋愛論』に挑戦しようと思います。
 私が最初に読んだ「恋愛論」は、吉行淳之介の「私の恋愛論」である。確か高校生の頃だったと思う。その頃は吉行に傾倒していて、特にエッセイはほとんど読んだと思うので、今、私が憶えている吉行のモノの考え方は、決して「恋愛論」に書かれていたものばかりではない。ただ、その数多く読んだエッセイの中で、「恋愛論」というタイトルのみが、今でも強く記憶に残っているのは、それなりの読後感を抱いたためだと思う。
 その後、大人になってスタンダールの「恋愛論」も読んだはずなのだが、こちらの方は、さらに何も残っていない。
 尤も、これから書こうとするものが、吉行やスタンダールに並ぶモノだとは露ほども思っていないし、2ちゃんねる(今は5ちゃんねる?)風に言うと、「チラ裏」程度の書き込みにしかならないことは、自分でも想像がついています、ハイ。

 女性が言うところの「恋バナ」とはちょっと違うけど、ぜひ読み続けていただけたらと思います。